震災から一年。伝えたいことPart2
七北田川を渡る。
そこにあるのは蒲生地区。
東日本大震災では、仙台市荒浜で200~300人の遺体という報道があった。
荒浜地区の北にある地区が蒲生地区だ。

▲七北田川

▲フェンスが倒れている。
この近くの標識に、河口から四キロという表示があった。
津波はここまでさかのぼってきたようだ。

▲県道10号線。被災地と被災地とを結ぶ重要な道路。
この道をまっすぐに進むと名取市閖上地区。
しばらく土手沿いに進んでいくと、看板があった。


どうやら震災前はサイクリングロードだったようだ。
この日は日曜日だったが、賑やかさはなく、私以外の人は一人もいなかった。
蒲生地区へと入る。

▲田んぼには水が残っていた。
震災前は水田がたくさんあり、稲穂が実っていたのだろうか。

▲後ろの建物は浄水場。この先に進と蒲生干潟がある。
震災から一年が経ち、今も復旧作業が行われていた。
進路を南に向ける。
道を曲がるとすぐに建物があった。

▲鍋沼揚水機場。
建物は残っていたが、至る箇所が壊れていた。
石碑はかろうじて残っていた。↓
ここからはしばらく写真のみ。







▲倒れたまま放置されていた電柱。






荒浜まで、まだ道は長かった。
続く。
今回の遠出をまとめた動画を作りました↓
そこにあるのは蒲生地区。
東日本大震災では、仙台市荒浜で200~300人の遺体という報道があった。
荒浜地区の北にある地区が蒲生地区だ。

▲七北田川

▲フェンスが倒れている。
この近くの標識に、河口から四キロという表示があった。
津波はここまでさかのぼってきたようだ。

▲県道10号線。被災地と被災地とを結ぶ重要な道路。
この道をまっすぐに進むと名取市閖上地区。
しばらく土手沿いに進んでいくと、看板があった。


どうやら震災前はサイクリングロードだったようだ。
この日は日曜日だったが、賑やかさはなく、私以外の人は一人もいなかった。
蒲生地区へと入る。

▲田んぼには水が残っていた。
震災前は水田がたくさんあり、稲穂が実っていたのだろうか。

▲後ろの建物は浄水場。この先に進と蒲生干潟がある。
震災から一年が経ち、今も復旧作業が行われていた。
進路を南に向ける。
道を曲がるとすぐに建物があった。

▲鍋沼揚水機場。
建物は残っていたが、至る箇所が壊れていた。
石碑はかろうじて残っていた。↓

ここからはしばらく写真のみ。







▲倒れたまま放置されていた電柱。






荒浜まで、まだ道は長かった。
続く。
今回の遠出をまとめた動画を作りました↓
震災から1年。伝えたいこと。Part1
21世紀。
人々が想像した近未来は夢となった。
パイプ状の高速道路なんて無かった。
車が空を飛ぶことはなく、延々と地面を走るだけ。
空まで届くビルなんてあり得なくなった。
そんな21世紀が始まって10年。
日本にとって未曾有の大災害が襲った。
2011年3月11日午後2時46分――――
あの震災から1年。
私は仙台港へ向かった。
震災から一年後の沿岸はどうなっているのだろうか。
もちろん、あの大きな揺れは内陸の地区もおそった。
まだまだ傷跡は多い。

▲地震で出来た段差を埋め立てただけの応急処置。
そして、仙台港がある宮城野区へ。

宮城野区。
実は私は震災直後に一回行ったことがある。
多賀城市に住んでいる友人の安否が気になり、仙台港周辺も通ったのだ。
そのとき、不謹慎かもしれないがカメラを持って行った。
何もなかった。
ただ、そこにあるのは、がれき、がれき、がれき。
いや、本当はがれきではないのだ。
たった2週間前には人々の手元にあった「もの」だった。
なにもできなくて、かろうじて撮れた写真は4枚だけだった。
あれからおよそ1年。
どうなっているのだろうか。
そんなことを考えつつ、一時間ほど自転車で走ると仙台港周辺に着いた。

やはり、傷跡は多々あった。



去年の秋に閖上地区に行ったが、
閖上と同じような損傷が多かった。
街灯が根元から折れていたり、

地面がえぐられていたり。

いったん多賀城市内へ

多賀城市。
残念ながら今回の震災で大きく取り上げられなかった町だ。
津波というと、大きな被害を受けたの東北・関東の太平洋沿岸だが、
その中でも目立って取り上げられたのは、
三陸沿岸、仙台市、名取市、福島県浜通り
の四つになると思う。
しかし、多賀城市は震災で188人の死者が出た。
仙台市の隣に位置する多賀城市は、
都市部と三陸海岸を結ぶ国道45号線が走っており、
仙台市内にいた、松島、石巻方面に帰宅しようとした人が犠牲となったそうだ。

▲ショッピングセンター内にあった垂れ幕。

▲仙台港方面を見渡す。

▲車が多く止まっており、活気がついてるようだった。
仙台市に戻り、七北田川を越え、蒲生地区へと入った。
続く
そして
今回の遠出の一部をまとめた動画を作りました。
こちら↓
人々が想像した近未来は夢となった。
パイプ状の高速道路なんて無かった。
車が空を飛ぶことはなく、延々と地面を走るだけ。
空まで届くビルなんてあり得なくなった。
そんな21世紀が始まって10年。
日本にとって未曾有の大災害が襲った。
2011年3月11日午後2時46分――――
あの震災から1年。
私は仙台港へ向かった。
震災から一年後の沿岸はどうなっているのだろうか。
もちろん、あの大きな揺れは内陸の地区もおそった。
まだまだ傷跡は多い。

▲地震で出来た段差を埋め立てただけの応急処置。
そして、仙台港がある宮城野区へ。

宮城野区。
実は私は震災直後に一回行ったことがある。
多賀城市に住んでいる友人の安否が気になり、仙台港周辺も通ったのだ。
そのとき、不謹慎かもしれないがカメラを持って行った。
何もなかった。
ただ、そこにあるのは、がれき、がれき、がれき。
いや、本当はがれきではないのだ。
たった2週間前には人々の手元にあった「もの」だった。
なにもできなくて、かろうじて撮れた写真は4枚だけだった。
あれからおよそ1年。
どうなっているのだろうか。
そんなことを考えつつ、一時間ほど自転車で走ると仙台港周辺に着いた。

やはり、傷跡は多々あった。



去年の秋に閖上地区に行ったが、
閖上と同じような損傷が多かった。
街灯が根元から折れていたり、

地面がえぐられていたり。

いったん多賀城市内へ

多賀城市。
残念ながら今回の震災で大きく取り上げられなかった町だ。
津波というと、大きな被害を受けたの東北・関東の太平洋沿岸だが、
その中でも目立って取り上げられたのは、
三陸沿岸、仙台市、名取市、福島県浜通り
の四つになると思う。
しかし、多賀城市は震災で188人の死者が出た。
仙台市の隣に位置する多賀城市は、
都市部と三陸海岸を結ぶ国道45号線が走っており、
仙台市内にいた、松島、石巻方面に帰宅しようとした人が犠牲となったそうだ。

▲ショッピングセンター内にあった垂れ幕。

▲仙台港方面を見渡す。

▲車が多く止まっており、活気がついてるようだった。
仙台市に戻り、七北田川を越え、蒲生地区へと入った。
続く
そして
今回の遠出の一部をまとめた動画を作りました。
こちら↓
地震発生一年後
2012年三月十一日午後二時四十六分十八秒。
記事、投稿しました。
1年です。
記事、投稿しました。
1年です。
飛び揺れ
またこんな記事だけど・・・。
どうしてこうなった?
どうしてこうなった?
11ヶ月
あの地震から11ヶ月。
今回の記事は、東日本大震災の動画です。
↑ようつべの中では、一番ワシの近所で撮影された揺れの動画。
↑仙台駅前の揺れの様子
↑南三陸町の津波
↓ここからしばらく、地震発生から17時頃までのNHKのニュース
↑この動画の3分14秒頃。日本中がショックを受けたであろう。
↑宮城県名取市閖上地区の津波
↑宮城県石巻市の津波
↑岩手県大船渡市の津波
↑福島県相馬市岩子地区の津波
↑宮城県気仙沼市気仙沼港の津波
私も未だにあのときの揺れを忘れられません。
幸い、沿岸からは離れた地域に住んでいましたが、
同じ東北人として、津波の被害はとても悲しかったです。
今回の記事は、東日本大震災の動画です。
↑ようつべの中では、一番ワシの近所で撮影された揺れの動画。
↑仙台駅前の揺れの様子
↑南三陸町の津波
↓ここからしばらく、地震発生から17時頃までのNHKのニュース
↑この動画の3分14秒頃。日本中がショックを受けたであろう。
↑宮城県名取市閖上地区の津波
↑宮城県石巻市の津波
↑岩手県大船渡市の津波
↑福島県相馬市岩子地区の津波
↑宮城県気仙沼市気仙沼港の津波
私も未だにあのときの揺れを忘れられません。
幸い、沿岸からは離れた地域に住んでいましたが、
同じ東北人として、津波の被害はとても悲しかったです。