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14時46分 ・ 21時46分

アラゴ&震災の記事が結構反響ありました。
皆さんに関心を持ってもらってうれしい限りであります。



さて、今日は仙台市のローカル三大イベント
「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」
に、行って参りました。
(ちなみにもう2つは「青葉祭り」と「仙台七夕」。勝手に決めた)

普段はジャズに全然興味はありません。
(スウィングガールズ見て少しハマッたが)
今回なぜ行ったのかというと、ウチの学年の先生が
メインイベントに出場するからである。
ちなみにパートはサックス。
個人的にサックスの音は好きだなぁ・・・。

で、勾当台公園野外音楽堂。14時OO分。

(ここ)


今年は震災があったせいか、かなり人がいました。(去年も行った)
写真とれば良かったなぁ・・・・。

ウチの中学校の生徒もちらほら。ほとんどが吹部でした~。

さて、皆さんもご存じかと思いますが、
今日は震災から半年。そして演奏中に14時46分。

今回は市内のあちこちで演奏しているグループが
14時46分に「ラ」の音を1分間奏でるイベントが。
おそらく黙祷の意だと思いますが、

この「ラ」の音は、赤ちゃんの産声、オーケストラのチューニングの音など・・・・。
始まりの音らしい。

14時46分。

市内に「ラ」の音が響き渡る。

ふと、周りを見ると
うつむいている人、手を合わせている人、
路上には停車する車も。

シン・・・。と、静まった。

半年か・・・・。
あっという間だね。


そして演奏再開。
かっこよかったですよ!

男の先生なんですが、
授業は面白いけど、怒ると怖い先生。

でも今日は生き生きとしてたなぁ・・・


その後、ロッテリアでブレイクタイム。
で、帰宅。



勉強してねぇw
明後日期末w


で。
今日は9.11から10年という、
大きな節目が二つある特別な日。

日本時間の21時46分、最初の飛行機が貿易センタービルに突入した時間である。

当時の日本は歌舞伎町雑居ビル火災で騒いでたな。
22時のニュースから特別番組で・・・。

おっと、詳しくはwikiで・・。


あと2時間ほどで10年です。
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半年がこんなに早い。

東日本大震災 2011 3 11 あなたは、何をしていましたか?バトン

Q1 2011.3.11 あなたは、何処にいましたか?
A1 自宅。
Q2 その時、何をしていましたか?
A2 おやつのチーズクッキーをむさぼって母とだべってた。
Q3 誰かと一緒でしたか?
A3 だから、母。
Q4 それは誰ですか?
A4 だから、母。
Q5 この地震の報道はいつ知りましたか?
A5 本震から30分後に兄が帰宅して、そのとき携帯で三陸沖M7.9(当時)と知った。津波が来たと初めて知ったのは、3時間後くらいにワンセグで八戸港の中継見て初めて知った。
Q6 その時、どう思われました?
A6 小さい頃から震度5以上の地震は10~15回くらい経験してた。(宮城と地震はセットみたいだった)でも今回の地震は平成史に残ることだな、と、瞬時に思った。
Q7 あなたは、被災者ですか?
A7 準被災者。1週間後にはほぼ日常通りだった。
Q8 あなたの家族、親戚、友人、知人に被災者がいますか?
A8 本格的に被災した人は無し。ただ、学校の先生が実家女川だったので、家族が亡くなったようです。
Q9 いま あなたは、何をしてますか?
A9 期末試験に向けての勉強。
Q10 近くに誰かいますか?
A10 家族就寝中。
Q11 大切な人ですか?
A11 亡くなったときに本当に知ると思う。
Q12 広いようで狭いこの国 あの時 色々な人間の営みがあったと思います…
A12 まったくです。
今日で半年か。
普段だったら半年前の事なんて忘れてるけど、
ワシはあの日の晩ご飯も思い出せる。

で、ちょっと長く話す。

あの日は翌日が三年生の卒業式の準備で早めに帰宅していた。
帰宅時間は14時35分くらい。
家には母親がいて普通に学校のこととかその日のこととか
いつも通りしゃべっていた。

そして14時46分。

テレビはつけていなくて、母の携帯は旧式で緊急地震速報が鳴らなかった。
もさもさとクッキーを食べながら、新聞でも見ようかな、と、思った瞬間。
初期微動が来た。
あのとき記憶にあるのは、東を見ていたら、東が急に揺れ出していたのがはっきり分かった。
最初は3月9日の余震かと思った。

その7,8秒後。

グランッ

前にあった棚が倒れてきた。台所から陶器が割れる音。
ついに来たか。宮城県沖地震。
大半の県民はそう思っただろう。

まさかこんな未曾有の大震災とは微塵にも思わなかった。
あわてて外に出た。駐車場の車が跳ねている。
走ってもまっすぐに走れない。
すぐ前の道路で妊婦さんがパニックになっていたので落ち着かせる。
表通りに出るとバス停に止まっていた市バスが横転しないかと思うくらい左右に揺れていた。

すると目の前に帰宅中の友人。
ワシ「やばくね?これ?」
友人「あぁ。あれっ?信号消えてね?」

揺れてるさなか、信号が消えているのに気付き、びっくりした。

目の前のアパートの外壁が崩れ落ちた。
公では揺れはだいたい6分と言っていたが、
体感では10分くらいだったかな?
揺れが収まると、車が動き出した。

周りの建物は倒壊はしてなかった。

家にいったん戻ると、何もかもがぐちゃぐちゃになっていた。
テレビが落ち、本棚は傾いていて、つい10分ほど前にいた部屋とは別の空間かと思った。

取りあえず取り乱さずに、近所の広い交差点に行き、交通整理を20分くらいやる。
こんな時でも車は動いているから、日本は治安がよいのだな、と、ふと思う。

また家に戻ると、兄が帰宅していた。
兄は高校の帰りに寄っていた本屋で被災したようだ。

取りあえず兄と買い出し
ついでに友人の安否が気になったので、訪ねることに。
途中、市内の見渡せるところに行くと、あちこちから煙が出ていた。

中学校の先生のところに行くと、
なんと、校地内に暴走族が来ていた。
先生たちの怒号がものすごく響いてた。
おそらくこの騒ぎに便乗して出てきたクソ連中だろう。

兄と歩いていると、近所の被災状況が目に入ってきた。
陥没した道路、ブロック塀の倒壊、ガス漏れ、水道管の破裂・・・。
ひどいものは半壊したものまであった。
このときはまだ、津波のことを知らなかったので、これだけで十分深刻だと思っていた。

コンビニはどこもかしこも50人くらいは殺到していた。
普段は話さない見知らぬ人とも、自然と会話する。
そんな中でも余震は続いていた。

こんな中でも、混乱している人をぼったくるコンビニもあったので、
人の裏を知る機会ともなった。

友人はみんな無事で、ラジオを聞いていたり、家の手伝いをしたり、
結構忙しかったようだ。。

夜になって聞いたのは、ラジオから流れる聞き慣れた地名の被災状況だった。
若林区で200~300の遺体、気仙沼で大規模な火災、陸前高田市壊滅状態・・・
明るい話題は一つもなかった。

つい一週間前に東北新幹線全線開通であんなに活気づいていた東北なのに。

その日の夕ご飯は缶詰と冷蔵庫の缶ジュースちょこっと。
先が見えなくてどれだけ食べて良いか分からなかった。
外に行くと、停電のせいか、いつもより多く星が見えて、
ああ、空ってこんなんなんだな、って思った。
夜も余震が続いたが、普通に寝れた。

翌日。10時半くらいにに起きたっけ。
まず、新聞が届いていなかった。
そういえば三宅島の噴火の時は正午過ぎまで新聞が来なかったって本で読んだことがある。
取りあえず中学校へ。
体育館では信じられないくらい避難している人がいた。
ああ、もうただ事じゃないな。

すると、親がスーパーに勤務してる友人がいた。
「今からボランティアでスーパーの手伝いするんだけど、来る?」
そうか、こんなときこそボランティアではないか。
即答で行くと答え、一緒にスーパーへ。

その道中、色々なことを話した。
その会話の中でワシは
「俺、父親仙台港の方で働いてるんだよね」
と言った。
友人はすぐ驚いて
「え!?仙台港ってコンビナート爆発したんだよね!」
と言った。
初耳ではなかったので、驚かなかったが、
そのコンビナートの火災はここからでも見えた。
黒煙の下にオレンジ色の炎が見えていた。
あそこに父はいるんだな、と、ふと思った。

スーパーで色々手伝ううちに午後になった。

うちに帰ると、ラジオでは県庁で被災情報が張り出されているとの情報が。
「俺、ちょっと県庁行ってくるわ。」
自転車をとばして県庁へ向かった。
市の中心部に向かうと、あちらこちらで非常ベルが鳴りっぱなしになっていた。
きっとビルの人は非常ベルどころじゃなかったんだな。

県庁に着くと、いつもはガラン、としているロビーに人だかりが。
おそらく2000人はいただろう。
廊下にも人がいて、人の熱気が溢れていた。
掲示板には県内の各市町村の被災状況が書いてあった。
沿岸部の自治体情報はすべて不明になっていた。

とまぁ、直後のごたごたはこんくらいですかね。
中学校の暴走族はホントビビりました。

余談

津波をもろに受けた被災地に行ったのは3週間後くらいだったかな。
若林区の沿岸部でした。
タンス、CD、フォトアルバム、老人健康手帳・・・
様々な個人の所有物や泥、防砂林の松などがごっちゃに。
道の脇に泥がかき出されていたので、当時はもっとひどかったのであろう。

そこには、どっかの国の救助隊(たぶんイギリス)や、
東京消防庁と書かれた消防車などが。

震災1ヶ月後くらいには多賀城市の津波被災地へ。
震災2週間前に行ったゲームショップは廃墟と化していた。

車は横転してるし、その車には○とか×とか赤く書いてあった。
たぶんそれは遺体アリとか、遺体処理後のマークだったのかな。
中には生々しく
「3月1O日午前O時OO分、遺体回収」
と、紙に書かれた車もあった。

重圧感で吐きそうになった。
たった数キロ内陸にはコンビニがあって自販機があって
学校が始業式やってて普通にごはん食べて・・・
っていう日常があるのに。
ここは泥と鉄のかたまりと廃屋しかない。

こんな差があって、すごく悲しくなった。




ってなかんじの震災。
後に伝えるのはワシらの世代だからなぁ・・・。

もし、またどっかで震災があったら発生翌日にも
ボランティアをしたいな。

それが人のためになるなら。





長文すいません。読みたい人だけ読んでください。
ちなみにワシの住んでいるところは特に大きな被害はありませんでした。
まだ半年ですが、早急な復旧を望みます。

鉢呂は死ね☆

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プロフィール

しゅーへー

Author:しゅーへー
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東北地方の田舎在住。
将来の夢:声を使ったお仕事
1997年9月20日生まれO型。

某県立高校1年1組。
部活は演劇部。

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